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2002年9月7日発行の中外日報に掲載された、日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会代表長谷川時夫についての記事です。日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会のホームページにも掲載したものですが、内容が、どうして廃校になった小学校を美術館にしたのか、どうしてインドのミティラー画なのか等、日頃良く聞かれる事について触れてありますので、ミティラー美術館のホームページにも掲載することにしました。
以下は「生きる 生きる」に掲載された記事です。


「月は最も美しい美術品」


ミティラー美術館館長 長谷川時夫氏に聞く


演奏活動で得た宇宙観
 〜宇宙にいる自分 感じるのが大切〜

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 「日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会」代表の長谷川時夫氏(54)は70年代、前衛音楽グループ「タージマハール旅行団」のメンバーとして活躍。演奏活動から得た宇宙観に基づき、美しい月を求めて新潟県の十日町に居を移した。リゾート開発計画に反対し、代案として廃校の小学校校舎を利用した文化施設をつくることになり、インド・ビハール州北部の女性たちに伝わるミティラー画の美術館を開館した。今年は7月に上野でインド・メラー(祭り)を開催。引き続き、今秋の東京、埼玉などでの関連イベント準備に奔走する長谷川氏にその足跡とインドとのかかわりを聞いた。
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 −−−前衛ミュージシャンとして活躍されていたそうですね。
 長谷川 16代目の江戸っ子で下町で生まれ育った過去が今日の活動や考えの原点になっています。高校生の時にニュージャズと出会い、テナーサックスを買った。コルトレーンが初来日したころで、一生懸命真似をしながら畳の上で一日8時間吹いていたんですね。その自分の周りにはげたを履いて都々逸を歌いながら銭湯へ通うおじさんがたくさんいた。それを聞いてどうも都々逸の方が自分にあうが、都々逸は過去の音楽で現代社会で生きている自分が入り込めない。
 自分がいいと思う音楽に近いのは何かと、民族音楽や日本の伝統音楽を聴き、調べた中で、お経が自分に最もいいと感じた。寺院の草むしりのアルバイトの折りに住職から阿弥陀経を教わり、住職の留守に本堂で阿弥陀経をジャズのように即興でやった。ギターの金属弦をゆるめ、シタールのような音を出しながら即興で歌い始め、演奏会でそれを聞いたニューロック、ニュージャス、現代音楽のジャンルの人とタージマハール旅行団を70年代初頭に結成。「現代音楽、ニュージャス、ニューロックの三角点の座標の真ん中にいて東洋的思考を持つ前衛グループ」と評されました。
 アジアに見られる神への奉納や自然賛歌、生活としての音楽を大切にしていこうと、小さな島で月が出てから消えるまでの演奏などをやりはじめた。
 美術館関係者の評価も受け、71年、スウェーデンの近代美術館に招待された。
 −−−どのような演奏をしていたのですか。
 長谷川 例えば、孟宗竹を切り、石で打つ。竹が月日とともに色が変わるのを知り、自分が音を出すのではなく、竹の旅を聞くのだというパフォーマンス。竹や木を使ううちに石が竹よりも美しいものに思えた。京大西部講堂では鴨川から大きな石を運び、その前に坐り、石を持ち上げて、風を感じて打った。
 −−−ヨーロッパでの演奏旅行はどうでしたか。
 長谷川 演奏の日にあわせて新しい作品を考え出した旅でした。
 それまでに「石が地球で最も美しいもの」と自分なりに感じたが、その理由は分からなかった。ベルギーのアントワープの屋根裏部屋で石を置いて毎日考えていたら、ある日、「地球は一つの石だ。月も石だし、宇宙は石で出来ている。石から土が生まれ、木や草が生まれるから竹よりも深い美しさをもって当たり前だ」とひらめいた。宇宙そのもである石と石垣や石仏の形で共生する日本文化を見直す契機になった。人類が様々な恐怖感や畏怖の中に自然界の様々な力を神々と崇め、祈る心が生まれ、その対象に石という存在があったと考えた。
 そういう宇宙観をグループを通して自分自身、作品を創る中で深めていった。言葉がわからない事で、かえって見ること、感じる事が増えた。
 また、小さな子供がお母さんを追いかけて閉まったドアに通り抜けられるかのようにぶつかった光景を見た。とても大きなインスピレーションを得た。
 本来、通り抜けられると思っていれば、日常生活の壁の向こうに宇宙がある。部屋の壁を倒せばビルがあり、木があり、空がある。青い空の壁を倒すと見えない空がある。そういう風に感じる事は大事だろう。ビルの5階に行くのは空に近づく、温泉は地球の懐の水を飲むことだというように自分が宇宙にいると感じるのが大切なことだ。
 日常生活で食べて行かねばならない、好きな女の子と暮らせないなど、様々なつらいことに入りすぎると、宇宙の中の小さな星の虫のような存在の自分が見えなくなる。そのようなことを次第に考えながらの一年程の公演でした。
美しい月求め新潟・十日町へ
 〜リゾート開発に反対 廃校を美術館に〜
 −−−帰国後、新潟に移ったのは。
 長谷川 「月は最も美しい美術品だ。それを見ないのはもったいない」と東京で縁台を出して月を見たが、光化学スモッグが激しいころでネオンとスモッグで見えない。月の見える場所へと埼玉、山梨に移り住み、結局、知人の縁で知り合った新潟の十日町の雪深い山中に住むことになった。山で米や野菜や納豆を作って町で売ったりしているうちに、地域に開発計画が起きた。21年前です。山菜が採れる場所をコンクリートで固め、アスレチックやテニスコートを作るという。
 当時の市長が「私も月は好きだが、市民は見に行かない。市民のニーズに答えるのが職務だ」と言うのに対し、「市長が言う市民とは何か。青い海を見に行っても落ち着いていられない。神経症の症候群と病理が現代社会に起きている。神経症の市民のニーズで自然を壊すのではなく、美しい月を数分と見ていられない自分は病気だということを、教えてくれる自然に手を着けないのが子孫のためにはいい」と主張すると市長は黙ってしまいました。そして、宇宙観を基本とする社会教育として、市が無償で提供した廃校の小学校を文化施設に使うことになった。
 その話を聞いたインド帰りの青年が「ギャラリーで展示したい」とミティラー画を持ってきた。ミティラー画は故インディラ・ガンジー首相が現地の飢饉の際に弱い立場の女性の救済を顧問のププル・ジャヤカール女史に頼んだ。女史はその地方にすばらしい壁画が伝承されていると知り、女性のための美術運動を起こしたのです。
 その中に心引かれる絵があった。宇宙観があり、ポスターに使った。獅子の身体に上弦の月のような模様があり、「上弦の月を食べる獅子」と題を付けた。作家の夢枕獏さんが町に来ていて、ポスターを見て、構想中の作品の題名に使いたいと申し出た。かれはその後、7年間書き続け、10回目の日本SF大賞を受賞しました。
 その不思議な絵を描いたガンガー・デーヴィーさんに会いたくて、インドへ行った。彼女は自分が食べられるのは神様のおかげだということで沐浴し、朝2時間、夜2時間、太陽や月の神様に祈りを捧げる。賞をもらい、忙しくなる程、お祈りの時間が増えた人なんです。そのために絵はコスモロジーをもつすばらしいものになっていったんですね。彼女に「ミティラーの女性は貧しいので助けてほしい」と頼まれ、ミティラー絵画専門の美術館なら世の中に役に立つと廃校の小学校でスタートさせました。

自然と深いコミュニケーション
 −−−インド関連のイベントにかかわるようになったのは。
 長谷川 美術館がオープンした20年前、大英博物館ではじめてインド祭が行われ、フランス、アメリカ、ソ連と各国で開催された。日本では88年にインド祭が外務省始まって以来の国家催事となった。「国家催事が地方に来ないのはおかしい」と松本洋事務局長に文句を言ったら、「君の考え方はいいが、スタッフがいない」といわれ、事務局長補佐になった。タゴール展など北は網走から南は与那国島まで公開した。
 地方には国際交流のニーズはあるが、提供する機関がない。この力を継続できないかと「ポストインド祭を考える会」を作り、毎年、インドの舞踊団や南の国のアーティストを呼んで自然と深いコミュニケーションを持つ文化を日本全国に公開してきました。
 今年は日本とインドが国交樹立して50周年の節目。日本にとってインドは大事な国です。パール判事の発言など、戦後、インドが日本にしてくれたことを皆が忘れているところがある。
 −−−インドの交流から学んだことを教えて下さい。
 長谷川 動物の一員である人間が技術社会をつくりあげた。この両極端の間をどう埋めたらいいか、私が一番考えるところですが、インドの哲学では自然の中にすべてがあり、そこで得た理念を社会に還元しなさいというすばらしい教育、生活の体系がある。自然との深いコミュニケーションを持つ文化がインドには残っており、啓発を受けています。
 ミティラー画を描く婦人たちには月は神です。お祈りを捧げにビルの谷間月が見える場所を探して拝む姿は大事なことに思えるんですね。
(聞き手=山縣淳)






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