2008年日印文化交流
日印国交樹立60周年
今年は日印国交樹立60周年の年になります。
記念催事が日印両国で1月から12月にかけて開催されます。
日本国内での催事はインド政府が、日本側の友好団体等の協力のもと、
インドの文化を中心に一年間にわたって紹介します。

写真展「仏陀の智慧の道」
シルクロードの文化遺産、発掘と収集で世界的貢献をした浄土真宗本願寺派第22世法主大谷光瑞氏が、インドの寺院をイメージし建立した寺。西本願寺直轄の寺院、その本堂を7日間にわたってインド政府に提供してくださいました築地本願寺に感謝いたします。その本堂に相応しい展示会となるため、ミティラー美術館に長い間眠っていた布張りパネルを張り替え、大工さん二名が協力して本格的な展示空間をと努力しました。駐日インド大使アロック・プラサードが展覧会監修の前田専學氏のあいさつ文を見て、自分は何も書く必要がないと言われたそうですが、あいさつ文そのものが仏教伝来の長い道のり、前田氏の深い洞察による平和への希求の世界が感じられます。ビノイ・ベール氏も期間中に講演をされ、日本の写真家松本榮一氏と交流、展覧会は大勢の方が見に来ました。ビノイ氏は8月11日、12日に同展を東大寺ミュージアムの菩提_那の故事に基づく大仏への奉納第二弾の時にも来日したいと言いました。

写真展「仏陀の智慧の道」監修者の言葉
 紀元前五世紀に、日本がまだ縄文時代末期にあった頃、バラモン教が栄えていたインドのブッダガヤー(王舎城)の菩提樹の下でゴータマ・ブッダ(Gotama Buddha 前463-前383、釈迦、釈尊)が悟りを開き、バラモン教の土壌から、仏教が誕生いたしました。 
 仏教は、インドから日本に到達するまでの千年の間に、さまざまに変容されました。ブッダが八〇歳で亡くなった後、紀元前三世紀になると名君アショーカ王が仏教に帰依し、仏教は王が支配していた全インドに伝播し、さらに西北インドから今日のパキスタンやアフガニスタン方面へと弘まりました。しかしアショーカ王の時代に、それまで統一を保ってきた仏教教団は、上座部と大衆部とに分裂し、さらに分裂を繰り返して多数の部派が成立しました。この時代の仏教を「部派仏教」と呼び、それ以前の仏教を「原始仏教」または「初期仏教」と呼んでいます。
 他方、アショーカ王の時代には、仏教はスリランカ(セイロン島)にも伝えられました。その後さらにミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオスなどにも伝わりました。この仏教の流れは、今日「南方仏教」、「南伝仏教」、「テーラヴァーダ仏教」あるいは「上座部仏教」などと呼ばれています。
 紀元一世紀前後になると、この伝統的・保守的な部派仏教に改革運動が起こり、従来の仏教を一人しか救えない「小さい乗り物」(小乗仏教)と呼び、自分たちの仏教を沢山の人々を救える「大きい乗り物」、すなわち「大乗仏教」と呼びました。(一九五〇年六月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、「小乗仏教」という呼称は使わないことが決議されました。)
 他方、西北インドへ弘まった仏教は、はじめは部派仏教でしたが、のち大乗仏教が加わり、やがて大乗仏教がその主流となりました。この流れは「北方仏教」「北伝仏教」といわれ、ガンダーラ(パキスタン北西部)・中央アジア・中国・朝鮮半島を経て、五三八年(一説に五五二年)日本に伝えられました。中央アジア経由の伝播ルートは、イスラーム勢力の進出以後衰滅しましたが,代って,チベット経由の仏教が,蒙古・満州にまで弘まりました。 
 この度、インド大使館のご厚意で、インドのビノイ・ベール氏と日本の松本栄一氏とによって撮影された貴重な仏教遺跡の写真展が開かれることになりました。今回の写真展は、仏教がインドを中心に、ひろくアジア諸国に、西へ、南へ、東へ、北へとと、強制や武力によってではなく、説得と共感によって、平和裡に伝播した軌跡をつぶさに見ることを可能にしています。
今年は日印国交樹立六〇周年の記念すべき年に当たります。この写真展が日印の交流の歴史を回顧し、日印関係の将来を考えるよい機会になることを切望しています。

  二〇一二年五月二七日
         東方学院長 前田專學

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